脈絡のない人間関係についての考え

陰口というものに脈略なく考察してみた。
陰口ならずとも、人を傷つける言葉をなぜ人は人にぶつけるか。

私は、人の人間関係には優先順位というものが必ず存在すると思う。

これに関しては例外はないと思う。

たとえば、どうしようもない粗暴な人間は、多くの人から優先順位的に下におかれる。

ずるい人間も人からあまりよく思われず人間関係としては下におかれる。

そういう人達は会話などで、話題にあがると、

あまりよく言われることはない。

「あいつはダメだ」的なことをいわれる。


上記の書いたことは極端は話であるが、

陰口や人を傷つける言葉などは、原理的にこういう―ことだと思う。

つまり、人は自分が尊敬、信頼している人には悪いことはいわず

自分にとってのそういう人達への悪口はだめだと感じる。

でも自分の中で関係ない、優先順位の低い人間には陰口もいうし

軽い扱いと思われるような言動や暴言もとる。

人は自分にとってどうでもいい人間に対しては、割と人は自分の中の倫理や矜持に

対して非常に甘くなるだろう。

人間関係は確かに楽しい。

いろんな人達がいるからこそ彩りが生まれる。

しかし、必然的に優先順位というものは生まれる。


自分がもし他人にたいして一切傷つけたくないとか、誠実で平等の中で生きたいなら

そういう人間関係というものを捨てるしかない。

しかし、ほとんどの人はそこまでして聖人になりたいとは思わない。

適度によい人間でありさえすればいいといった程度だ。


そこで私の個人的な感情として、虫唾がはしるのが
陰口や人を傷つける言葉に対して批判する言動だ。

人間関係というものを築いている限り
自分が陰口や傷つける事は、他人に対して絶対にあり得ることだ。

だから私は、人間関係を楽しみたいし、へんに聖人ぶりたいとも思わないので
人間関係の裏も表も享受したい。
(と、言葉では書いたものの、ほとんどの人間が裏表で生きているものだ)

 

しかし、開き直りというものは私は嫌いである。
私の上記の人間関係を享受したいというものもある種の開き直りである。
矛盾するようであるが、私は自分のそういう面が嫌いだ。
これに関しては、後々に考察したい。そしていずれ記事とする。

いや考察したい、ではなく、考察しなげればならない。

とりあえずなにか記事かかねば的な記事

私がガンダムというものにハマりだしたのは、
大体ガンダムUCEP6の公開後ほどだったと思う。
しかしそれは偶然で、私は第二次スパロボZにはまり
それでガンダムというものを知った。
それからDVDなどでガンダムの作品、ガンダムの監督の作品を
みてさらに深みにはまった。

そこで私が言いたいのは、あるジャンルを好きになる入口というものは
とても大切なことだということだ。
スパロボがなかったら私はガンダムと出会っていなかったかもしれない。

だからゲーム等だけでガンダムを語っている人に対して
「にわか」などと思うかもしれないが
それをきっかけにアニメを鑑賞し、ガンダムというものを知っていくこともある。

物語の展開、このキャラはどんな活躍をするか、MSの種類など
そんなものは好きになり、作品にかかわっていくと知っていくものだ。

これはガンダムに限らない。
私は最近アニメを通じてジョジョにはまったが
一部の原作ファンからはアニメは邪道だという意見もある。

好きになるかもしれないきっかけの窓口への批判は
ファンになるかもしれない人たちが失せていく可能性もある。

むしろガンダムジョジョ、他の作品に関しても
どんな窓口からのファンであれ
好意的に迎え入れるという姿勢が大事なのではないか

(もちろん例外はある

 それについては気が向いたら記事にしようと思う)

あるガンプラにあって…

ガンプラモデラー界でちょっとした有名な方の

作品を、とある機会で譲ってもらった。


その方は奇抜な塗装や改修を主としていて

正直、その方の作品が好きか嫌いかとなると

かなり極端に分かれると思う。

(今となっては、私はその方の作品はモデラーの中でも1、2を争うほど好きかもしれない)

私も最初は正直「ちょっとやりすぎかな…」と思ったが

なにか惹かれるものがあり

実際に、現物をみてみると、画面では伝わらない

高レベルな塗装はもちろん、酔狂な小技、

「これさえなければいいんだけどなぁ」と思っていた改修点まで

これがあってこその、その方の作品であり、

コンセプトの体現に必要不可欠なのだと感じた。

そしてガンプラ作成に大事なものはコンセプトだということも学んだ。


モデラーさんのガンプラをみて、私もガンプラつくりたいなぁと

強烈な触発を受けました。

(具体的な件のキットの内容を書けず、抽象的な表現ばかりで

 すみません。)

私にとってのΖガンダム

今回は、宇宙世紀の中でも人気のΖについて書きたいと思う。

あくまで私のΖ論である。

ゼータとはガンダムサーガのはじまりといってもいい作品だと思う。

 

ガンダムはファーストで終わることもできただろうが、Ζという作品の登場によって

シリーズごとにつながりができ、ZZ、逆襲のシャア、その他の外伝作品という

宇宙世紀を壮大なものにしたと思う。

個人的に、私にとってファーストの見方は二つある。

一つは一年戦争の中のアムロとシャアの英雄譚的な完成された物語。

もう一つは、続きのある宇宙世紀の最初の作品、いわばナンバリングの1の部分。

ファーストはファーストだけでも完成された作品だが

後者として考えるとΖの功績はかなり大きいのではないだろうか。

私は、ΖΖ、逆襲のシャアというのはファーストというよりΖからの延長線上のほうが

色濃いように感じる。

 

まとめると、Ζこそが、宇宙世紀という壮大な世界観の橋渡し的な役割を担っている作品だということだ。

 

 

(今回のは、自分の考えを文章にまとめる訓練としての側面もあります

 感じたこととか意見があれば、コメントくれるとうれしいです)

 

 

はじめてのお題投稿

今週のお題「プレゼントしたい本」

 

プレゼントされた本を相手は、はたして読んでくれるだろうか。

数ページ適当に読んで、本の内容は話し合わせ用にてっとりばやくネットかで調べる

逆もしかり…私は本をもらったことはないけど、よほど読書に対する嗜好があう人からのいただき本か、たまたま興味をありそうな本だったら、少し目を通すかもしれない。

 

例外はあるが、本をプレゼントという行為から普段読書に縁がない人であることが伺いしれる。

 

 

チョコロリロボ

ジム殿製作のHGグリムガルデです。

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正面。ジム殿いわく頭部の開閉方法が複雑でわかりにくいらしいですw

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背面

 

ブランクがあって、やはり塗装はちょっとさきになりそうかも。

信仰としての宗教ではなく、依存としての宗教。

日本人にとって宗教というものは、あまり馴染みがないですよね。

神社にお参り、初詣、正月、そこに宗教としての特殊性は存在しない。

仮に神道を奉る者として初詣やお参りにいくのは当然、といっても

納得のいく人はいないと思います。

神道の特殊性を例にあげる人がいますが、あれは信仰をかてとした宗教とはいえず

信仰心が日本人に必要がないということです。

 

日本人は古代ギリシゃ哲学者がいった「万物の根源は相対」を地でいっており、

他人と自分の違いこそに、救いや幸せを感じたり求めたりしますが、

信仰はしません。

自分と他人の関係性において信仰など必要ありません、

自分の信じることや決める尺度は、ほとんどが他者の依存からのものです。

新約聖書では「己の剣で裁くものは 同じ剣をもって裁かれるだろう」

 

これは古代ギリシャの先人の言葉が元となっているといわれますが、

つまり、自分の考えで他者を裁くものは、自分もまた、自分の考えによって他者の裁きにあうということ。

 

日本人は人間関係を相対的に考えるからこそ、他者、または他者とのふれあいに依存を求める。

つまり、人間関係を相対的に考えるとは、自分と他者を社会的地位や、友達、なんらかで優劣で比べたりすること。

 

自分と他者たちが違うことで、人は、実際に他者と関わらず、

内側へいくことが多い。

 

なぜ相対的ではだめなのかというと、ひきこもればネットワークを通じて

他者を観察することができ、自分はさながら超越的な視点から

物事をみていると錯覚する。

ネットには間違ったことがたくさんある。

物事に対して自分だけで結論を下すくせが必ずつく。

他人に対して断罪することや、自分と似たような仲間達と音声通話などに依存することとなる。

そうしたら、自分の頭で考えたことがなにより至上と錯覚してしまう。

 

それでもネットを通じてしか他者とふれあえない人は、

自分を客観的にみてみるといいかもしれない。

そしてネット活動にスケジュールをつけるのもいいかもしれない。