信仰としての宗教ではなく、依存としての宗教。
日本人にとって宗教というものは、あまり馴染みがないですよね。
神社にお参り、初詣、正月、そこに宗教としての特殊性は存在しない。
仮に神道を奉る者として初詣やお参りにいくのは当然、といっても
納得のいく人はいないと思います。
神道の特殊性を例にあげる人がいますが、あれは信仰をかてとした宗教とはいえず
信仰心が日本人に必要がないということです。
日本人は古代ギリシゃ哲学者がいった「万物の根源は相対」を地でいっており、
他人と自分の違いこそに、救いや幸せを感じたり求めたりしますが、
信仰はしません。
自分と他人の関係性において信仰など必要ありません、
自分の信じることや決める尺度は、ほとんどが他者の依存からのものです。
新約聖書では「己の剣で裁くものは 同じ剣をもって裁かれるだろう」
これは古代ギリシャの先人の言葉が元となっているといわれますが、
つまり、自分の考えで他者を裁くものは、自分もまた、自分の考えによって他者の裁きにあうということ。
日本人は人間関係を相対的に考えるからこそ、他者、または他者とのふれあいに依存を求める。
つまり、人間関係を相対的に考えるとは、自分と他者を社会的地位や、友達、なんらかで優劣で比べたりすること。
自分と他者たちが違うことで、人は、実際に他者と関わらず、
内側へいくことが多い。
なぜ相対的ではだめなのかというと、ひきこもればネットワークを通じて
他者を観察することができ、自分はさながら超越的な視点から
物事をみていると錯覚する。
ネットには間違ったことがたくさんある。
物事に対して自分だけで結論を下すくせが必ずつく。
他人に対して断罪することや、自分と似たような仲間達と音声通話などに依存することとなる。
そうしたら、自分の頭で考えたことがなにより至上と錯覚してしまう。
それでもネットを通じてしか他者とふれあえない人は、
自分を客観的にみてみるといいかもしれない。
そしてネット活動にスケジュールをつけるのもいいかもしれない。